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竹久夢二1 夢二とたまき

根津の弥生美術館・竹久夢二美術館では「竹下夢二 詩人画家の誕生~宵待草、100年の軌跡~」展が開催されている。井の頭公園のギャラリー喫茶「宵待草」のオーナーである小澤清人先生も出品していてみにいくことになった。
「夢二について、乱歩について(小澤先生の作品は乱歩の『D坂の殺人事件』のイメージ画だったので)予習しておこう」と思って初めたお勉強だったが、思わぬほど、コイ時代で、どっぷりはまってまる1週間、明治・大正と、根津谷中千駄木と本郷について調べてしまった。


竹久夢二

竹久夢二1 夢二とたまき_c0192202_20355818.jpg明治17年(1884年) - 昭和9年(1934年)49歳死去。岡山県の酒屋に生まれ、本名:竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。
画家・詩人。多くの女性との恋愛でも有名。17歳の時、家出して上京。翌年早稲田実業学校に入学。社会主義に触れ、平民社の荒畑寒村らと共同生活を営みながら、新聞、雑誌にコマ絵を投稿。夢二の作品のうち書籍の表紙など多くが印刷され、大衆に人気を博した。一時は中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した。

大正ロマンと美人画で知られる夢二の作品からは、ほのかなエロチシズムが漂う。画家、美人画家として脚光を浴びるようになったのは「夢二式美人画」である年上の未亡人たまきと結婚してから。

たまきの前夫は日本画家であり美大出身だったため、またたまき自身も絵心があり、夢二が制作をする際には助言をしたという。そのため夢二はたまきに大きなコンプレックスを持っていたという。

岸 他万喜(たまき)

竹久夢二1 夢二とたまき_c0192202_19402435.jpg明治14年(1881年) - 昭和21年(1946年)61歳死去。たまきは加賀藩士(のちに金沢地方裁判所所長)の娘として生まれ、少女時代までは外出の際にはお付きの者がいたというお嬢様育ち。日本画家と結婚し二児を設けるが夫が急死したため、子供は人に預け早稲田鶴巻町に絵葉書店「つるや」を開店。客として現れた夢二は店主のたまきに一目惚れ。早慶戦の絵はがきを手にして言う。「これは売れるよ」。この時、たまき25歳、夢二22歳。この2ヶ月後には夢二は結婚を申し込んでいる。2年後には離婚するが、その翌年に再び同棲、複雑な関係を持ち続ける。

明治40年(1907年)夢二23歳、岸たまきと結婚。
夢二は「大いなる眼の殊に美しき」妻たまきをモデルにした作品を発表し、次第に人気作家となってゆく。
竹久夢二1 夢二とたまき_c0192202_20432715.jpg
明治41年(1908年)夢二24歳、長男虹之助が生まれが、二人の不仲はすでに始まる。

女よおまへとつれそうてからもう三年になる。己は、一日として、おまへが己の妻だと感じたことがない。今日は、はじめて、しみじみとおまへが私につれそふてゐることを知つた。然し、それを知つた時は、もうおまへに飽きてゐる時だつたのだ。(明治42年1月27日)

明治42年(1909年)夢二25歳、たまきと協議離婚、しかし二人はその後も生活をともにし、12月、最初の画集『夢二画集 春の巻』を刊行、一躍売れっ子に。その扉裏の献辞は「この集を別れたる眼の大きな人におくる」

明治43年(1910年)夢二26歳、たまきと虹之介と房総方面に旅行、「お島さん」と恋をし、『宵待草』を発想。

明治44年(1911年)夢二27歳、次男・不二彦誕生、たまきと別居。

大正3年(1914年)夢二30歳、日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店、夢二は笠井彦乃、たまきは東郷青児と出会う。
夢二は日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店。店の人気は凄まじく、夢二フアンがあつまり、その中には19歳の笠井彦乃もいた。この時期の夢二は「第二の女」となる彦乃だけでなく神楽坂の芸者きく子とも恋愛をしていたようだ。一方で夢二は31歳のたまきと店の手伝いをしにきていた初個展をしたばかりの18歳の東郷青児との仲を疑っている。

男はその愛する児の口から「かあちやんと東さんとパパさんのゐないときねたよ」と聞いて「さうかえ」とばかり言つてだまつてしまつた(『夢二日記』大正3年12月17日)

青児から見たたまきは「夫から顧みられない、儚く美しい年上の女性」であったことだろうが、たまきと少年青児の関係が清いものだったと思う。すでに夢二は彦乃と逢い引きを重ねており、たまきはそんな彦乃の父親宗重の元へに行き、こう言ったそうだ。「私の夫にあなたのお嬢さんをください」と。

しかし嫉妬と不信にかられた夢二は(陰で悪いことをしている、隠し事がある人間は、相手も自分と同じように陰で悪いことをしてるに違いないと疑うものだ)翌年、旅行先の温泉にたまきを呼び寄せ、腕を刺している。

なげだせし命なれど/殺しえぬ/憎きそなたは仇か味方か。
なげだせし/この頸さへ 腕さへ/わがものならず/なんとすべけむ。
きみ刺さば/われもいかでか死なざらむ/死にゆくものに何の債ぞ。


そして夢二はたまきと別れ(ざるを得ないよなあ・・刺しちゃったし。どうみたって犯罪者だ)5月には昨秋より親交のあった彦乃と堂々と関係を結ぶ。

たまきは夢二と別れそうな時ほど夢二をひきとめるかのように子供を生んでいる。逆に言うと、別れそうな時ほど相手にしがみつこうと夢二は子供を産ませる行為をしている。どこまでもダメ男夢二・・自分より高い学歴をもった女を自分を向上させるために利用しようとし、だけどそんな女の前ではいばれないから、もっと目下の女を探す。こんな男の股間物なんか切っちゃえ!

「女の数は男の甲斐性」
ついこの20年くらい前までそう世間では言っていた。実際、夢二は不幸にした女の数だけ成功しているように見える。だけど夏目漱石や藤島武二といったアカデミックの頂点に立った人達はそんなに女遊びをしていなさそうだから、やはり文化度の違いなのだろう。

昔の社会は恋愛に対して厳しく、特に女に対して社会はとても厳しい冷たいものであった。男の性欲発散は女の破滅を招くのに、男は女を作っても幸せになんかなれないのに、パソコンや携帯電話やテレビのない時代の人は精力的だったのか、それとも時間が余ったのか、性行為をすることが生きるということの中で大きなウェートを占めていたようだ。



東郷青児

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1897年鹿児島で生まれ、本名は鉄春。19歳の時1916年第3回二科展初出品で二科賞受賞。1921年~1928年フランスに留学。1961年二科会会長・理事。洗練された感覚と美意識をもって描かれた優美でロマンチックな独特の女性像は、誰にでも理解でき親しめる作品であり、独自性と大衆的人気においては稀な画家。

このブログ内の夢二記事:
竹久夢二1:夢二とたまき
竹久夢二2:夢二とお島さん
竹久夢二3:夢二と彦乃
竹久夢二4:夢二とお葉
Commented by office-maki at 2012-08-06 16:49
2012年8月6日現在、この記事を読まれる方が多く、驚いています。この記事は個人趣味でまとめた物で、誤りもたくさんあると思いますのでご了承ください。

夢二に対する興味の発端は、夢二の2番目の女:彦乃が女子美の卒業生であり(私は女子美の附属中学高校の出身です)、女子美がかつて菊坂にあり(母校:芸大から菊坂は遠くありません)、自分も絵描きとしてまた女子美の卒業生や芸大のモデルに興味をもったからでした。

夢二やお葉について調べている方は、必ず書籍等をよくお調べになってください。
by office-maki | 2010-04-18 10:08 | アートな話 | Comments(1)

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