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竹久夢二4 夢二とお葉

お葉

竹久夢二4 夢二とお葉_c0192202_12212562.jpg1904年 - 1980年、76歳死去。秋田県出身、本名:永井カ子ヨ(かねよ)。大正5年12歳の時、母と二人で上京し、母は納豆売り、カネヨは人形工場で働くが生活は徐々に緊迫していき、モデルになり、伊藤晴雨、竹久夢二、藤島武二ら作品のモデルをつとめ、その後に医者と結婚し、晩年まで平穏にくらす。

東京で貧しい生活を送るカネヨをモデルにスカウトしたのは宮崎モデル紹介所であった。この宮崎モデル紹介所の社長、宮崎菊こそ日本初のヌードモデル。外国人画家に対し明治10年(1871年)に25歳の時モデルを務めている。当時、西洋画を目指しヨーロッパに留学した日本の絵描きたちは人物画には裸体デッサンが不可欠であることを知るが、日本に帰ってから裸体モデルを求めようにもきわめて困難を極め、ほとんど着衣のモデルを使用。プロのモデルは一人もおらず、多くの画家たちは妻や愛人をモデルとした。絵画のモデルはその多くが男性労働者で、日給は1日25銭。そんな中、宮崎菊はヌードモデルの女性へ倍の1日50銭を支払う。(菊へ対して支払われた斡旋料は月6円。何口も抱えていたわけだからスゴイ)顧客は東京美術学校、白馬会、太平洋画会、本郷洋画研究所、川端研究所、女子美術学校、黒田清輝、藤島武二、など。

モデルを務めるは金に困った未亡人や遊女ばかりのなか、12歳の初々しいカネヨは学生達のアイドル的存在で、いつもカネヨのいるクラスはカネヨ目当ての学生で一杯になったという。藤島武二のモデルも務めるが、当時50歳の藤島は風景、静物を題材としたものが多かったため、お兼をモデルとして使うことは少なかった。その後15歳まで「責め絵」の伊藤晴雨のモデル兼愛人に。

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伊藤晴雨

明治15年、彫金師の息子として浅草に生まれる。幼少時より「絵の天才」と認められ、8歳の時に光琳派の絵師に弟子入り。9歳責め芝居を見て大いに心動いたという。12歳の時象牙彫刻師へ丁稚奉公に出され、その後は長じて新聞連載の挿絵画家をしている。27歳の時包茎手術をし、結婚。30歳で長男誕生、34歳の時12歳のカネヨと出会い、以後3年間カネヨをモデルに責め絵を描く。またカネヨとの関係が原因となり37歳で妻と離婚。
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女の責場のモデルは、私にとって絶対に肉体関係があった方が良いと思う。情欲の切迫感がその1歩手前のところでストップしていなければ醜悪の感じばかりがでて、美の観念が表現できない。平凡に言えば、お役で縛られ、1時間何円かのお勤めでのポーズを作っていたのでは、実感が出てこないのである(晴雨)

カネヨを夢二に取られた後も、妻を替えながら責め絵を描き続け、昭和36年78歳で死去。その後もサブカルチャーのイコンとして高い人気を誇り、乱歩の出世作1925年「D坂の殺人事件」でも晴雨と思しき人物が登場している。
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大正8年(1919年)夢二35歳、モデルの面接でカネヨ15歳と出会う。夢二はカネヨに「お葉」と名付ける。
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大正9年(1920年)夢二36歳、彦乃25歳で病没。カネヨをモデルに夢二の代表作品『黒船屋』完成。
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写真の好きだった夢二はお葉の美しい写真をたくさん残している。
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大正10年(1921年)夢二37歳、お葉と渋谷に所帯を持つ(6年後には離別)。
お葉一児与太郎をもうけるが夭折。夢二は自分の子供だと信じず、一度も抱き上げなかったという。以下、お葉と別れてから出版された夢二の自身がモデル『出帆』の一節。登場人物の名は変名で書かれており、「三太郎」は夢二、「お花」はお葉、「吉野」は彦乃のことをさす。

お花は三太郎が南画の運筆のお稽古をしている側で白モスの産着を縫いながら言うのだった。
「パパ?」
「なんだ」
「何って名にするの」
「男の子なら与太郎、女の子なら川へ捨ててしまう」
「どうして、あたし女の子の方が好いわ。あなたの子供はみんな男だったから、女の子はきっと可愛いわよ」
「不幸な恋をした娘の父親の心持は俺には堪らないからね。吉野の時にそのことをつくづく感じた。ところが母親はやっぱり女性だから娘の恋人に好感も持てるし、娘に同情も持てるものらしいね。お前の母親が若い銀行員を好いたようにね。しかしお前は本当に、子供が生まれるのを楽しんでいるのかい?」
三太郎はお花の顔を見ていった。
お花も三太郎の顔から何か探しモノをするように見返しながら
「パパは?」と聞いた。
「生まれてくれないほうがみんなの幸福だよ」
言下にそう答えるべきだったが、得心のゆくようにわけを説明するのも困難だし、実も蓋もあけて底をわる気になれなかったので、三太郎は黙って苦い顔をしてみせた。


やがて夢二は夏から秋にかけて、画会のため長期の旅行にでる。この間の八月ごろ、お葉は出産する。男の子であったため、お葉は子供を与太郎と名づけ、母になった喜びに浸っていた。しかし間もなく与太郎は病気になってしまう。お葉は必死で看病しながら夢二に手紙でその状況を訴えるが、夢二の返事。

からだはどんな風だ。死ぬものはしかたがない。おまへのからだは、これから私のためにだいじにだいじにしておくれ。そればかりをねんじている

あまり文字に明るくないお葉を気遣って仮名を多用した文になっているが、心を砕くのは産後のお葉に対してのみである。夢二にとって大切だったのは望まぬ我が子よりも、モデルとしてのお葉だったのであろう。やがて与太郎は死に、戻ってきた夢二とお葉、お葉の母と隣家の夫妻とでつましい葬儀を営んでいる。

大正13年(1924年)、夢二40歳、アトリエ兼自宅「少年山荘」を東京世田谷区に建設。8月、お葉は隣家の書生小原と家出する。小原が好きだったというのではなく、夢二の女癖などに対して夢二の気を引きたい一心からの行動だった。しかし小原はお葉に対して本気になり、別れるのがもたつく。2か月ほどして引越しの仕度を整えていた所にお葉は隣は戻り、夢二はこれを黙って迎え入れる。「少年山荘」と名づけられたこの家には、夢二とお葉、そして夢二の二人の子供と女中が入ったが、お葉の行く手を聞きつけた書生小原も住み込みの手伝いを希望してやってきた。お葉との関係を全く知らなかった夢二は、男手も欲しかったところだとこれを迎え入れた。だが翌年の春、小原は睡眠薬をもちいて家の二階で自殺をはかる。一命はとりとめたが、この騒ぎですべてが露見し夢二も事の次第をようやく悟えい、小原は逃げるように山荘を出て行く。お葉は自殺を図るが未遂に終わり、気の病で床に伏せることが多くなる。夢二はそんなお葉をあわれにおもい、お葉との入籍も考えるようになる。

大正14年(1925年)夢二41歳、当時、徳田秋声の愛人として有名だった山田順子と交渉を持ち、お葉は半年後に別離する4カ月後には順子も去っていく。

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藤島武二

1867年 - 1943年、80歳逝去。薩摩藩士の家に生まれ日本画を学ぶが、のち洋画に転向。1896年黒田清輝の推薦で東京美術学校助教授に、黒田が主宰する白馬会にも参加。1905年37歳の時に渡欧、帰国後教授に就任。明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家であり、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重要人物。浪漫主義的な作風の作品を多く残している。

夢二の元を去った22歳のお葉を藤島武二は「芳恵(ほうけい)」として描いている。そこには収穫の女神を象った横顔女性が描かれているが、豊穣をつかさどるにはあまりにか弱く、暗く塞ぎこんだ表情で、およそ芳恵をもたらす女神の像としてふさわしくない。武二描く西洋絵画のふくよかな女神のような女性とは雲泥の差だ。しかし、夢二や晴雨のような日本独特の世界の手伝いをした女:カネヨこそ、「日本らしさ」の象徴でもあっただろう。
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カネヨはこの絵を見て、「自分の全てを描き切られてしまった」と、作品のモデルになることをこの絵を機に辞めたという。当時60歳ちかかった武二は、失恋し疲れ切った生身のカネヨを描くことで、「見なさい、この疲れ切り、影にまみれた女こそが今までのお前が歩んできた姿だ。醜悪な偽りに満ちた生活からさっさと足を洗い、恵みに満ちた豊穣の女神のような真の人生を歩みなさい」とカネヨにエールを送っていたのだと思う。
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大正15年(1926年)夢二42歳、お葉が他の男と結婚すると聞き、名モデルお葉が去ってからの夢二は、制作に没頭できていない。あせりを感じたのか、このころから、海外旅行を希求する。昭和2年(1927年)夢二43歳、『都新聞』に自伝絵画小説『出帆』を連載。「出帆」は、自己の半生をそのまま素材にしており話題を集めた。

昭和6年(1931年)夢二47歳~、米国で西海岸各地にて個展を開くが不調。アメリカから渡欧。
昭和8年(1933年)夢二49歳、9月に帰国。10月には台湾に渡るが体調を崩し帰国、結核を患って病床につく。
昭和9年(1934年)夢二満49歳11ヶ月で逝去。この時、医者に嫁いでいたお葉ことカネヨは29歳、夢二の元を離れてから7年が過ぎていた。夢二が去ってから46年後の76歳までカネヨは生きてゆく。


夢二の3人の女達はそれぞれに役割がある。
たまき → 
母親のようにわがままを許してくれる年上であり、服従する貞淑な妻。甘えん坊の夢二にとって妻は「自分だけを絶対視」でなければならないから、たまきが他の男と疑いがあることを許せなかった

彦乃 → 
芸術を志し、自分を師のように仰ぐは弟子のような存在であり、また保護しなくてはならない恋人。夢二より先に死んでしまったことで、「守り切れなかった」というような後悔が夢二には残った。そのため夢二の心の中で清い存在であり続けた。

お葉 → 
若く美しく、他の男がうらやむ女を情人にすることは、人生の成功を物語る勲章。他の男とのスキャンダルがあるほど、その主人である夢二の器は大きくなってゆく。夢二は写真が好きであったというが、自分のものである美しいお葉を自慢したくてたくさん写真に残したこともあったと思う。

夢二にとっての不幸は、「女の数は男の勲章」と思っていたこと、また自身のスキャンダラスな私生活が自分の名声をあげることを知っていた、ということだと思う。3人の女と一緒にいる夢二自身を見ると、一番幸せそうに笑っているのはたまきと写っている時で、彦乃と一緒の時の夢二はだらしなく皮膚は垂れ、目には精気がない中年そのもの。お葉とならぶ夢二は、初老の男が若い女を囲っていて醜悪である。夢二は「女を替えることでは自分は幸せにはなれない。若く美しい女を囲うほど自分は醜くなってゆく。しかしそれは自分の成功を買うということなのだ」と思っていたに違いない。

貴重な時間をずいぶんと割いて、夢二の周辺について調べた。夢二のことを調べたからといって私にとって何か得になるわけでもないのに。しかし私だけでなく、「夢二について知ったからと言って得があるわけではなさそう」な多くの人が夢二の痕跡についてネット上で書いていたので、やはりそれだけの魅力とゴシップ性を夢二やお葉は100年たっても持っていたということなのだと思った。

調べれば調べるほどに夢二のことが嫌いになり、「得のない1週間」だったが、彼の代表作のひとつ「黒船屋」は夢二36歳の作品。「自分もこの『脂の乗り切った年齢』の時を大事にし、たくさんの作品を作ろう」と改めて決意したことが、夢二を調べて得た大きな「得」であった。

このブログ内の夢二記事:
竹久夢二1:夢二とたまき
竹久夢二2:夢二とお島さん
竹久夢二3:夢二と彦乃
竹久夢二4:夢二とお葉
Commented by のり☆えもん。 at 2011-06-07 01:04 x
名嘉真先生、はじめまして。
金沢市在住ののり☆えもんと申します。
夢二好きでして、検索しているうちにたどり着きました。
まだ先生のブログを全部拝読したワケではないですが、本稿は拝読いたしました。
私見をお伝えしたくなってしまいまして、コメント欄をお借りいたします。

夢二の女遍歴は言うまでもなくとんでもないものです。
晩節は人気急下降した夢二ですが、そもそもの原因はそれなのだそうですから。
ただ先生のご意見である「夢二にとっての不幸は、「女の数は男の勲章」と思っていたこと、また自身のスキャンダラスな私生活が自分の名声をあげることを知っていた、ということだと思う。」には違和感を感じました。
かと言って全くそう思ってなかったとは思いませんが。
夢二の不幸は「自分が本当に女性に求めているものが自覚できなかったこと」じゃないかと思うのです。
自覚はないけど何となく満たされるものがなく、結果として彼自身自らを「流浪の旅人」と自称(というよりは自嘲かも)したのではないか、と。
死んだ人のこと、真相は不明のまま、ですけど。
では、先生のブログ、拝読させていただきます。
失礼いたしました。
Commented by office-maki at 2011-06-08 01:08
のり☆えもん。様

この長い非常に個人的視野にたったテキストを最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

1年ほど前に書いたテキストなので、夢二についてはその後いろいろと考えが変わりつつあります。彼が生きた時代というものがこの希有の人気作家に及んだ影響は大きかったはずです。もっと夢二という作家について知りたいと今は思っています。


Commented by office-maki at 2012-08-01 22:32
2012年7月31日現在、この記事を読まれた方があまりに多く(約1000件)、驚いています。この記事は個人趣味でまとめた物で、誤りもたくさんあると思いますし、個人的感情にもとづいています。

夢二に対する興味の発端は、夢二の2番目の女:彦乃が女子美の卒業生であり(私は女子美の附属中学高校の出身です)、女子美がかつて菊坂にあり(母校:芸大から菊坂は遠くありません)、自分も絵描きとしてまた女子美の卒業生や芸大のモデルに興味をもったからでした。

夢二やお葉について調べている方は、他のサイトや書籍をよくお調べになってくださいね♪そして個人的記事ですので、ふさわしくない表現もあるかと思います。ご指摘あれば削除しますのでご連絡ください(連絡先はカテゴリのプロフィールの中にあります)。
Commented by office-maki at 2013-01-19 10:00
2013年1月19日現在、「夢二 お葉」の検索トップにこの記事が来ていることで、この記事にたどり着かれる方が多いようです。このブログは、個人の日記ですので、根拠や事実、一般評価を気にする事なく書いています。夢二とお葉について調べている方は、書籍等をお調べください。
by office-maki | 2010-04-15 10:55 | アートな話 | Comments(4)

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