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父の物語④幼少期から青年へ

名嘉眞武寿少年の物語④
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島原に帰ってみると、父武勝の両親はすでに亡くなっていた。自分が住んでいた家には弟の家族が暮らしている。一間しかない家に一家4人が入る場所はない。

母の実家である福田家は武勝の母の姉が継いでいた。姉は妹が沖縄人と結婚したことを福田の恥と思っていたことを武勝はこの時に知った。

一家は頼みこんで福田家が所有していた本家から離れた離れの家の4畳半ほどの土間の前にある小部屋を借りることになる。4畳半以外には絶対足をふみ入れてはならないという。親戚なのに福田家は苦労してやっとの思いで生きて帰った自分達をなぜないがしろにするのか?

父武勝は妻富寿子と一緒に何度も福田の本家に通っては、離れの家全部を貸して欲しいと頼みに行った。それは数年の間、何度も何度も続いた。父と母が福田家に行く時、寿子と武寿は川のそばで長い時間待たされた。武勝の伯母が継いでいた福田家は、本家の敷地内に武寿達が入ることを許さなかったからだ。冬の川辺は本当に寒くて、二人体を寄せ合ったそうだ。親が帰ってこないんじゃないかと不安になることも多々あり、親が福田の家から出てくるのが見えると心底ほっとしたそうだ。

なぜ周りの日本人達は、自分達が朝鮮から引き揚げ者だとわかると、馬鹿にするのか?姓を聞き、沖縄出身だと思うとバカにするのか?武寿はうっぷんがたまる毎日を過ごしていた。武寿は幼稚園に通う年齢となっており、まわりの子供はみな幼稚園に通っていた。しかし武寿の家は引き揚げ者で、貧乏で幼稚園に行くゆとりはとてもない。それでも両親は「幼稚園に行くか」と聞いてくれたが、武寿は「カトリックの幼稚園なら平壌にもあった。カトリックは性に合わないから行きたくない」と答えた。それから武寿はうっぷんから自分をからかう子供に暴力を振るうようになる。そしてそのことはひどく母親を失望させた。

しばらくすると弟達が2人も生れた。せまい4畳半で一家6人の暮らしは、武寿が小学校6年生になるまで続いた。

一方、父親の武勝もまた困難に対峙していた。仕事がない、金がない、家族を食わすことができない。福田家にリヤカーを借り、リヤカーを押して海辺へいっては塩を、山辺に行っては野菜を分けてもらい、福田家に行き、米と交換してもらった。その米をまたリヤカーに乗せてあちこち行き、米を売る。野菜を売る。塩を売る。自分達の食べる野菜は自分達で育てた。近くに農園を借り、リヤカーに便所の糞尿の桶に入れ、畑の肥溜まで運び、貴重な肥料として利用した。小さな弟達がいるので、武寿はこの農作業の主な担い手だった。

父武勝はなんとか家族を養い、一家の暮らしは徐々にだが向上し始めた。一方、福田本家では主人が脳卒中で倒れ、高額の医療費が必要となった。その頃武勝は「一件全部を売って欲しい。何年かかるかわからないが、必ず全額払い切ってみせる」と頼んだが、それは認められず、「離れ一件全部を当分の間貸す」ということで同意した。

武寿と寿子の幼少期は貧しい生活ばかりだった。それだけではなく、平壌では朝鮮人に馬鹿にされ、日本では沖縄人といって馬鹿にされる。朝鮮からの引き揚げ者といって馬鹿にされる。寿子は母親に尽くす子だったから、母親から愛された。一方暴力ばかり振るう武寿は母親にとって困った存在だった。それでなくても小さい弟達がいるというのに。なんて手のかかる子なんだろう。武寿は母親の愛情を感じられないまま育つことになる。長女寿子が欲しいというものはできるだけ買ってあげたい。一方武寿は男だし、長男だ。我慢を覚えなくては困る。なんでも我慢・我慢。武寿は親からの愛情不足を一層暴力として吐き出し、何もしない近所の子供たちを殴るようになっていた。自分の強さを誇示することで沖縄人、朝鮮からの引き揚げ者と馬鹿にされまい、と思ったそうだ。当時「凶犬がいるから名嘉眞の前の通りは通るな」と子供を持つ親たちは云いあうほど、その暴力はひどかった。

やっと一軒全部で生活できるようになったのもつかの間で、すぐに宮崎県に行くことになった。父が就職先を探したからだ。武勝は本来の職業である検事の仕事を得、次に裁判官となり、武寿が中学生になった頃、宮崎にある裁判所で武勝が働くことになり、その官舎で暮らすことになった。その官舎の庭でも一家は畑を作り、長男武寿は学校に通い、官舎に帰ると一生懸命野菜を育てて中学時代を過ごした。

武寿が高校に上がる頃、一家の暮らしはだいぶゆとりができてきた。母は弟達に我慢をそれほど押しつけなくてもノートも鉛筆も買ってやれる。繕いに繕いを重ねなくても服が買えるようになってきた。兄である自分は少しでも早く家を離れる必要があると教えられて育った。「自分の力だけで生きなきゃいけない。誰も手助けはしてくれない。一人で生きなくては」は母の口癖だった。

一方、父武勝には野望があった。帝国大学を苦労して卒業した自分。裁判官である自分。沖縄人といって、朝鮮帰りだといって、引き揚げ者だといって、金がないといって世間と福田家は自分達を馬鹿にしてきた。一億円稼いでやる。一億円稼いで福田にも世間にも認めさせてやるんだ。

「一億円を貯める」という迷惑な武勝の目標のために、妻や子供達は一層我慢を強いられた。「お父さんのために我慢しなさい。」は一家の鉄則だった。そのため妻や兄弟達は何度も武勝を恨んだという。

武寿は東京の大学に推薦で入学することになる。もっと上の大学に進みたかったが、弟達がいるので、浪人はできない。武寿が大学生の頃、弟達が高校と大学の受験期を迎えていた。だから節約しなければならない。食べ盛りの武寿はいつも腹をすかせていた。食べる金がない。だから当時付き合っていたすでに仕事をしていた彼女(うちの母だ)に食事代を出してもらうことはしょっちゅうだった。

時代は学生闘争の趣を濃くしていった。一方父親の武勝はすでに60歳を越したが、人生の中で初めて平穏な生活をやっと送れるようになっていた。
by office-maki | 2011-04-05 01:09 | 日記 | Comments(0)

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