ラグーザ「日本の婦人像」
2012年 12月 18日
ラグーザは、明治の「御雇い外国人」の一人。日本に西洋の彫刻を伝えたイタリア人で、この彫像は西洋の美術を日本に紹介する意味において非常に大きな役割を果たした。
日本女性を表現するにあたり、20歳年下の妻の玉が助言したそうだ。「日本の女性を表現するなら、日本人形のように気取ってるのではなく、たすき掛けして働く姿がいい」と。
「きっと奥さんがモデルで、子供にお乳を与える妻を表現しようとした作品なんだろう」と思っていた。でも、当時の玉はまだ20歳前後で、彫刻の女性はどう見ても30代半ば。その上、ラグーザと玉が子供を授かる事はなかった。
じつはこの作品、元は胸をさらけていた訳でないらしい。
ラグーザはまず人体部分を作ってから、衣服を肉付けした。石膏原型の襟が取れてしまい、そのまま型として石膏像やブロンズ像を作ったので、乳が出てしまったようだ。たしかに剥がれ落ちた痕跡が襟元にある。
原型の石膏像の画像を見ると、肌と着衣の質感の違いがブロンズ像よりも鮮明に出ていて、たいへん美しい!女性の視線は、今にも正面にいるこちら(観客)へ動きそうだ。
このラグーザの作品を見ると、愛する女性の故郷である日本に対する愛情が伝わってくるようだ。「日本の婦人像」を制作している時は、「玉も将来こんな中年の女性になるのかな」とラグーザは楽しく想像したに違いない。
その時の玉は73歳で、夫ラグーザの作品を偉業を日本に残すために日本に帰国したといっても過言ではない。51年間住み慣れたイタリアを離れ、言葉の不自由な日本(彼女は日本語が話せなくなっていた)に帰ってくることは、かなりの勇気が必要だったはずだ。ラグーザと玉の間には、子供がいなかったから、ラグーザの作品こそが大事な二人の愛の結晶でもあったのだろう。玉のラグーザに対する愛情のおかげで、今現在私たちはこの作品を見ることができる。
ラグーザの妻:清原玉。ラグーザに絵を学ぶ弟子であり、当時の人々がなることを嫌がったモデルであり、外国人と結婚した。その上、イタリアに渡って外国の学校で働いている。まさに非常に希有な女性であった。
彫刻について話すと、動きは向かって右から左に抜けている。顔も正面右側が奥に向かい、正面左側が手前に向かっている。大学2年のころ、芸大の彫刻の実習の時に習った通りだ。「この世の有機体で完全なる左右対称なんて存在しない。必ず奥に向かう方向性と、手前にくる方向性がある。」これこそラグーザからはじまった芸大の彫刻科に伝わる西洋式の表現方法ではないか!
清原玉は優れた画家であり、イタリアで画家として大きな成功を収め、人々に愛された。いつか清原たまについても記事で取り上げたいと思う。
余談だが、「日本の婦人像」も「清原玉像」も、粘土から直接型取りをした石膏像の方が、型取りを重ねたブロンズ像よりもずっときれいだ。ブロンズ像はどうしてもぬるくて偽物チックな感じがする。
2014年5月29日追記:
イタリアでラグーザの痕跡を訪ねてきました。この記事もご覧下さい。
イタリアでは、様々な都市にガリバルディ騎馬像がありますが、ラグーザの作ったガリバルディ騎馬像が一番腕がよく(一番残念な場所に設置されていましたが‥‥‥)、日本にきた外国人教師として一番腕がいい、適任の人物がラグーザであったことを確認できました。