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竹久夢二3 夢二と彦乃

笠井 彦乃

竹久夢二3 夢二と彦乃_c0192202_1162060.jpg1896年- 1920年25歳死去。山梨県生まれ、夢二がつけた別名に山路しの。日本橋の紙問屋の娘として裕福に育ち、女子美術学校の学生。夢二のファンであり、絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問、交際が始まる。

大正3年(1914年)夢二30歳、日本橋に「港屋絵草紙店」を開店、来店した笠井彦乃と出会う。

大正4年(1915年)夢二31歳、たまきと別居。
当時19歳の彦乃は夢二から女子美術学校を勧められ、女子美に編入。「女性が学問、ましてや芸術をやる」当時の女子美の学生は皆良家子女ばかりで、貴族や大商人の娘達のみが通える学校であった。女子美は当時本郷・菊坂にあり、夢二が滞在した菊富士ホテルまで徒歩10分程の距離。彦乃の父親は彦乃より11歳年上の夢二と逢うことを固く禁じていたが、彦乃の使用人や友人、小唄の師匠などの協力を得て二人は逢瀬を続けた。
竹久夢二3 夢二と彦乃_c0192202_11847100.jpg
大正5年(1916年)夢二32歳、たまき夢二の三男草一を出産、人手に渡る。
すべてを捨て周りから干渉を受けずに暮らすために、東京を離れることを決意。

大正6年(1917年)夢二33歳、次男不二彦を連れ、京都二寧坂に転居の借家で彦乃を待ちながら生活を始める。
竹久夢二3 夢二と彦乃_c0192202_11201563.jpgのちに高台寺近くに移り彦乃と同棲。金沢旅行中、「夢二抒情小品展覧会」を開く。彦乃を待つ夢二は3月15日に彦乃に宛てた手紙に次のように書いている。

逢える日がだんだん近づいて来る。(中略)せっかくここまでこぎつけたのだから、うまくしっぽを出さないように。(中略)なんだか遠くから花嫁さんをもらうような心のさわぎがおかしい。山へ夢

「港屋」で出会って2年8カ月後、やっと彦乃はあこがれの夢二との生活を始めることになる。京都に来てから夢二はたまきとも完全に切れているし、絵の勉強もできる。彦乃はこの時期、精力的に制作活動を行っている。同棲を始めて2カ月、金沢で開いた「夢二抒情小品展覧会」には彦乃も、夢二がつけた「山路しの」の名で出品。金沢・湯涌温泉では、彦乃は初めて既婚女性の髪形の丸髷に結い、記念写真を撮っている。これから2年後にこの世を去る彦乃だが、まさにもてる命の全てが喜びで輝いた66日間だったに違いない。彦乃は日記にこんな言葉を残している。
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一生のうちまたとない日。こんないい日はかつて覚えがない。自由でしかも責任のある一日一日を、よりよくより幸福に暮らしていくことが一番大切なことだと思う。(1917年7月5日)

夢二さんはいつまでたっても好きな人だと思った。好きだというより離れられない人だと思った。自分はどんなに幸福か知れない(1917年10月13日)

大正7年(1918年)夢二34歳、『宵待草』セノオ楽譜から発刊、全国的なヒットとなる。夢二の名声が高まる中、裕福な家に生まれ苦労ひとつしたことのない彦乃にとって夢二と隠れるように暮らした約1年間は、慣れぬことばかりだったにちがいない。病気がちになり、ついには結核になってしまう。九州旅行中の夢二を追う途中、彦乃は別府温泉で結核を発病、周囲からは入院を周りから進められるが、ぐずぐずしてすぐに病院に入らない。おそらく病状は重く、死を覚悟し、夢二と少しでも一緒に痛かったのだろう。見かねた父の手によって東京に連れ戻され、御茶ノ水順天堂医院に入院(女子美の創設者佐藤静の父親が順天堂医院の創設者で、夫は次代医院長を務めており、女子美と順天堂のつながりは深い)。一方、彦乃と引き離された夢二は東京へ戻り、本郷菊富士ホテルに移るが、入院中の彦乃とは会うことを禁じられていた。

大正8年(1919年)夢二35歳、彦乃への想いを綴った歌集『山へよする』を出版。
小ぶりの装丁の歌集には彦乃と思われる、目の大きな元気そうな女性が描かれている。病床の彦乃はこの歌集を読めただろうか?夢二はこの歌集によって彦乃が元気になり、一緒に暮らすせることを強く願ったに違いない。一方、滞在先の本郷・菊富士ホテルにてモデルの面接でお葉と出会う。

大正9年(1920年)夢二36歳、彦乃25歳で病没。
あこがれの人夢二を一途に追っかけ、その愛と、制作に生きる。彼女の生き方はとても素直でまっすぐだ。彼女にとって夢二は「孤高の芸術に生きる人生そのもの」であったろうし、夢二にとって彦乃は若々しくまぶしい女神ミューズだったことだろう。

夢二の女といえば、「第一の女」たまき、「第二の女」彦乃、「第三の女」お葉だが、多くの女性と関係をもった夢二が生涯最も愛した女性は彦乃であったと言われている。その理由は、他の女の場合夢二が先に惚れ、女性もそれに従ったが、彦乃は自分から夢二を追い求め愛し、、その愛の中で人生を終えた女性だったからだと思う。

夢二の3人の女の中で、自ら学問を積み、作家として芸術を志したのは彦乃だけである。後年、夢二は徳田秋声の弟子であり愛人であった美貌の山田順子と関係を持ち、それに嫌気がさしたお葉は家を飛び出しているが、その山田順子との関係は4カ月だけのものであった。夢二は作家であり、行動的で自分の意思で動く山田順子に彦乃の面影を重ねていたのではないか。

彦乃は80年ほど前の、女子美の先輩にあたる。「女子美っこ」から見ると、彦乃の顔も性質も、彼女は「女子美っ子」そのもの。夢二の人生を飾った女達を想う時、夢二も彼女たちも幸せそうには見えないが、彦乃の生命の輝きが夢二の人生を照らしている時だけは夢二も人間らしい慈愛の光に包まれていたようだ。

このブログ内の夢二記事:
竹久夢二1:夢二とたまき
竹久夢二2:夢二とお島さん
竹久夢二3:夢二と彦乃
竹久夢二4:夢二とお葉
Commented by office-maki at 2012-08-06 16:50
2012年8月6日現在、この記事を読まれる方が多く、驚いています。この記事は個人趣味でまとめた物で、誤りもたくさんあると思いますのでご了承ください。

夢二に対する興味の発端は、夢二の2番目の女:彦乃が女子美の卒業生であり(私は女子美の附属中学高校の出身です)、女子美がかつて菊坂にあり(母校:芸大から菊坂は遠くありません)、自分も絵描きとしてまた女子美の卒業生や芸大のモデルに興味をもったからでした。

夢二やお葉について調べている方は、必ず書籍等をよくお調べになってください。
by office-maki | 2010-04-16 10:23 | アートな話 | Comments(1)

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