父の物語②朝鮮・京城
2011年 04月 04日
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1903年、武寿の父:武勝は、両親が暮らす長崎県島原市で警察官と米問屋の三男として生れた。1904年には日露戦争がはじまり、戦勝祝賀ムードに全国が包まれている時代だった。時代が大正へと移り変わっても血なまぐさい時代は続いた。1914年に第一次世界大戦が勃発、1918年シベリア出兵、戦争終結。1919年朝鮮京城で大規模な反日デモ突発、中国で大規模な反日デモ突発。
そんな時代の中、優秀だった武勝青年は、朝鮮の帝国大学に進学することになる。京城帝国大学。1924年に6番目の帝国大学として、日本統治下の朝鮮の京城府(現:ソウル市)に設立されたばかりの朝鮮唯一の旧制大学だ。1926年には法文学部・医学部が設置。
武勝は京城で暮らし、法学部を卒業する。そして日本人妻と結婚。その日の食べ物にも困る暮らしの中で妻が産褥で亡くなる。日本本土では1923年の関東大震災、1930年代は世界恐慌による大不況で飢え死にする者が後を絶たない状況であった。
武勝が暮らしていた下宿先には、娘がいた。石森冨壽子。娘が18歳の時、父親は病気で死んでしまい、母親は娘の結婚を焦っていた。父親の後ろ盾がない限り、ろくな日本人の結婚相手は見つからないに違いない。日本に戻れば今よりも貧しい生活が待っていることだろう。
名嘉眞さんは、琉球出身者で娘よりうんと年上だが、妻が産褥で亡くなったばかりだし、学士様だ。13歳も年上で、その上妻がいた男と結婚することを娘はとても嫌がった。「父親がいない以上、娘を食べさせることは難しい。姉が早く片付かないと、母親と妹達が食うに困っても、お前は心が痛まないのか。そんなに親不孝者なのか」と母親から因果を含まれ、娘は武勝と結婚することになる。1939年、武勝33歳、冨壽子20歳だった。
世の中では、ノモンハン事件、第二次世界大戦勃発、朝鮮人の創氏改名強制法令化と、一時薄れていた血なまぐささがまた濃厚になってきた時代でもあった。二人は、1895年に日清戦争の主戦場になった平壌に移り住むことを決める。日本に征服されてからすでに40年以上たつ平壌。物資で潤う満州に近いし、生活は安定できるだろう。そして平壌で長女寿子が生れ、1943年9月15日には長男武寿が生れる。平壌が日本軍の攻略を受けた1894年9月15日から数えて折しも51年目の9月15日のことであった。
出典:
“京城府”wiki
“京城帝国大学”wiki